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自由なヒトがいない理由:苦痛の悪性を理解する一つの方法

秋谷海岸
秋谷海岸

はじめに

 

このブログポストでは、苦痛の純粋な悪性(sheer wrongness of pain)を理解していただく方法として私が思いついた「自由なヒトがいない理由」を解説する。

 

ここでの「自由」には2つの種類がある。

一つは一般的な意味での自由——我々が普段「自由」と言う時に意味する、信教の自由とか「南の国で自由な生活を送りたい」とかの自由——である。

もう一つは、「自分自身の苦痛最小化や快楽最大化に全く適わない行動をする自由」という極めて特殊な“自由”である。

結論から言うと、この二つ目の意味の自由というのは存在しない。

この自由は、苦痛の純粋な悪性に基づくアンチネイタリズムやヴィーガニズムの支持にも関係ない、言ってしまえば全く重要でない概念である。

私はこの自由が存在しないことを示すことによって、このブログポストを読むヒト(の意識)が苦痛の純粋な悪性を理解しやすくなることを望んでいる。

 

苦痛の純粋な悪性

 

このような話をこのウェブサイトでするのは初めてなので、初めに私の考えの根幹にある“苦痛の純粋な悪性”(sheer wrongness of pain)という基本事項をひとまず説明しておこうと思う。

 

私は平たく言えば「人間」であるが、厳密にはヒトの身体の知覚から成る「意識」である。

私は苦痛を感じる能力(以下『苦感能力』)を持っている——というより私苦感能力そのものである(I am the ability to feel pain)、と言った方が正確だろうか——。

そして苦痛はあらゆる問題を問題たらしむ純粋な悪(または悪性を持つもの)である。

言うだけならこれで済むが、理解してもらうのは簡単ではないようだ。

 

苦痛の純粋な悪性は、あなたが苦感能力を持つ意識なのであれば必ず理解できると思う(幸運なことに苦感能力を持ちながら苦痛を感じたことがないのであれば話は別だが)。

苦痛がなければ何も問題にはならない。

何らかの理由でA氏がB氏を殺害すると、B氏が殺され方によっては多大な苦痛(傷の痛みや恐怖など)を感じ、B氏を愛するC氏も苦痛(主に悲しみ、場合によっては葬儀費用など財政負担による精神的/身体的苦痛も?)を感じることになる。

A氏が殺人の罪を犯した後に感じるであろう苦痛(後悔や刑罰への恐怖、実際の刑罰による苦痛)もA氏にとって問題である。

彼ら全員から苦感能力を取り除いてみると、この殺人は全く問題にならない。

苦感能力を持つ者のいない世界では、誰も困らないから何も問題にならないのだ。

 

 

苦痛最小化のため自由は制限される

 

実際のところ、この殺人事件とそれによって生じる苦痛に関わる3名が苦感能力を持っているかどうかは、何かの奇跡で彼らになってみることができなければ分からない——つまり決して分からないと言い切って差し支えなかろう(そもそも我々が彼らに『なる』ことができたとしても、彼らになった我々はまだ『我々』でいるだろうか)。

私が苦痛を感じるであろう状況で3人も似たような反応をする(ように見える)ことから、3人も恐らく苦感能力を持っているのであろうと推察することはできても、それを本当に知ることはできない。

この知識/認識の限界は唯我論または独我論と呼ばれる考え方であり、少なくとも私のペイニズム(painism)とそれに基づくアンチネイタリズム(anti-natalism)ならびにヴィーガニズム(veganism)の支持はこれに基づくものである。

 

前述した苦痛の純粋な悪性は、日本国憲法での「公共の福祉」と同じ働きをする。

すなわち、個人の自由(自分の苦痛を最小化し快楽を最大化する道徳的権利)は、他者の苦痛を生み出さない限りにおいてのみ保障されるのだ。

苦痛の悪性は「意識Dには(意識Dが感じる苦痛の悪性に基づいて)苦痛を最小化し快楽を最大化しようとする道徳的権利がある」に加えて、「意識Dには(意識Eが感じるかも知れない苦痛の悪性に基づいて)他の意識(意識E)に苦痛をもたらすかも知れないことを回避する義務がある」も成立させるのである。

 

これは要するに「他者に不当な加害をする権利はない」というごく一般的な原則でしかないので、とりわけ理解の難しいことではないだろう。

 

自分を苦しめる自由があるのでは?

 

「自由なヒトはいない」とタイトルで述べた。

その理由をこれから説明しようと思う。

 

先に述べた通り、我々は他の意識に苦痛を感じさせることを回避する道徳的義務を持つ。

ところが自身に対しては、やりたくない数学の勉強を強いるなどして苦痛を感じさせることが一般的に許容される。

一見するとこれは自身に苦痛を感じさせる自由があることの証明のように見えるかも知れないが、実際のところ意識は苦痛最小化や快楽最大化を目指して行動することしかできない。

 

例えば、数学が不得意な高校生Fが嫌々ながら数学の勉強をする理由として、以下のようなものが考えられる。

 

勉強する理由 苦痛/快楽の明細
勉強しないことで保護者に叱られることを避けるため 叱られることによる精神的苦痛の回避
テストで赤点を取ることを避けるため 精神的苦痛の回避
及第点以上の獲得による精神的快楽の獲得
 志望校に合格して大学生活を楽しむため  志望校に合格できないことによる精神的苦痛の回避
志望校での充実した学生生活による快楽の獲得
就職活動を有利に進めることによる精神的快楽の獲得
やりたくないことをやって偉い子になったような気になりたい 精神的快楽の獲得

 

挙げようと思えば他にも色々と挙げられるだろうが、これくらいにしておこう。

数学の勉強の例には当てはめにくいが、自身に対する処罰感情を満たすことによる快楽獲得/満たされないことの苦痛回避を理由に自身に苦痛を与えることも考えられる。

いずれにしても、(一般的な意味での)自由が与えられている環境では、意識が自身の苦痛最小化と快楽最大化に適わないことをすることはない。

この意味で、ヒトの意識に自由はないのである。

 

はじめに申し上げたように、これな苦痛の純粋な悪性(sheer wrongness of pain)の理解に役立つことを期待して書いたブログポストでしかない。

存在しない「自身の苦痛最小化/快楽最大化に適わない行動をする自由」のことを真剣に考えたところで、アンチネイタリズムやヴィーガニズムの理想の実現に寄与することは何もない。

ただ、苦痛の純粋な悪性は全ての根幹を成す非常に大切な考えなので、理解に役立つ方法が他に見つかれば随時ブログでお伝えしたい。

 


改訂履歴

2020年8月4日  タイトル『自由なヒトがいない理由』を『自由なヒトがいない理由:苦痛の悪性を理解する一つの方法』に変更
『はじめに』を追加
最終段落を微修正 
2020年8月7日 『苦痛最小化のため自由は制限される』第2段落を微修正

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