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2021年

 

2021年、凄い年でした!

このブログポストでは、中身の濃かった365日を月ごとのハイライトで振り返ります。

 

1月



「ハンシュッショーシュギ」の認知度向上?

毎日新聞が森岡正博氏のインタビュー記事で「反出生主義」と呼ばれるもの(antinatalism)を取り上げたことで、新年早々 Twitter が騒がしくなりました。

恐らく「『生まれてこないほうがよかった』世界で注目『反出生主義』とは何か」というふざけたタイトルが原因の大部分を占めるのだと思いますが、出生奨励主義的な根深い洗脳を抜け出すことができていない(pro-natally brainwashed)人々による記事への反応――特に反出生主義を「生まれなければよかった」という個人的な嘆きだと勘違いする人々の反応――にはひどく失望しました。

反出生主義という語が多くのヒトの目に触れることになったことはある程度喜ばしいことなのかも知れませんが……毎日新聞さんはもっといい仕事ができたはずですよね。

何ですか、「生まれてこないほうがよかった」って。

「ハンシュッショーシュギは真剣に扱う必要のないメンヘラの考えなんです!」と宣言するようなタイトルではありませんか。

 

私が Twitter で古野氏をフォローし始めたのはこの月だったはずです。

相互フォローになって数日程度、あるいははもっと短い期間で古野氏と共に団体を設立する運びになり、氏のツイートでその団体の存在開始が宣言されたのが1月29日の夜でした。

結構な急展開です。

 

2月



無生殖協会の設立

1月に存在を開始した団体は一度名前を変えて、「無生殖協会」として2月7日に正式な設立を宣言しました。

これについてはブログポスト「反出生主義 vs 反出生主義:無生殖協会の共同設立」が詳しいので、そちらを参照してください。

 

2020年にも団体の設立を考えていた時期がありました。

設立を考えていた、というよりも「設立される必要があるよなぁ」程度のぼんやりとした問題意識を持っていた、と言った方が正確でしょうか。

当時はまさか自分がその共同設立者/共同代表になるとは思わなかったのですが、その時作っていたロゴ案がそのまま無生殖協会のヴィジュアル・アイデンティティーの土台として使われることになりました。

ペールピンクで有感生物種のポテンシャル個体への倫理的配慮を示し、複数種類の黄緑から成る長方形の中に「AN」と「V」を形作ってヴィーガニズムを内包する非種差別的な antinatalism の支持と実践を宣言する、という感じのデザインです。

 

3月



無生殖協会の非公式交流会

初めてインターネットを介さずに無生殖主義者/antinatalists(日本語で『反出生主義者』と言ってしまうと『反ヒト生殖主義者』または『メンタルヘルスに問題のある者』と捉えられる可能性があるのでこう呼ぶことにします)と会う機会になったのが、この非公式交流会でした。

共通の目標を持つ人々とヴィーガンカフェで交流し、充実した素敵な時間を過ごすことができました。

 

『現代生命哲学研究』にインタビュー掲載

毎年3月に刊行される早稲田大学の学術誌『現代生命哲学研究』の2021年版(第10号)に、古野氏と私の共同代表としての文書インタビューが載りました。

少なくとも私は自分の立場について書くべきことを書けた実感はあります。

私の自己紹介の材料として「これを読んでくだされば私について分かっておくべきことが分かります」と言えるような記事になったと思いますので、ご興味のある方は是非お読みください。

 

Formula 1 の開幕

"We have a hell of a season ahead of us"、まさにその通りになりましたね。

2021年の素晴らしいF1シーズンは、その後への希望を持たせる非常にポジティブな、かつ少しばかり惜しいバーレインGPで開幕しました。

 

フロアの規定変更は私の予想以上に大きな影響をもたらし、メルセデス(と、流れ弾でアストンマーティン)の優位性を削ぎ落としました。

おかげでレッドブルはメルセデスW12に匹敵する純粋なペースを持ち、フェルスタッペンはポールポジション獲得でシーズンをスタートしました。

アルファタウリはギャズリーが予選5位(決勝はDNF)、角田が初戦で13位スタートからの9位入賞、マクラーレンのランドが予選7位から4位入賞を果たすなど、私にとっては大変素晴らしい週末になりました。

トップ争いの陰に隠れてあまり語られないことですが、ペレスがDNSの危機を自力で抜け出し、ピットレーンスタートから5位まで挽回したのも特筆すべきことです。

 

惜しまれるのはマックスのトラックリミット違反への対処の仕方です。

マックスはルイスをトラック外でオーバーテイクした後、すぐにミドルセクターのストレートでポジションを戻しました――これがこの日の勝敗を決したと言って良いでしょう。

最終コーナー手前で譲ってメインストレートでDRSを取れば、もしかするとマックスはターン1までにポジションを取り返して勝てたかも知れません。

 

いずれにせよ、このシーズンがメルセデスにとって楽なものにはならないということが明らかになった点で、開幕戦は多くのファンにとって良いものだったのではないでしょうか。

 


4月



An Antinatalist Handbook(反出生主義者のハンドブック)の英日翻訳

1月のANIボランティアミーティングで、ハンドブックの存在と翻訳者の募集を知りました。

私だけでも完了できるだろうと個人として英日翻訳に着手したのですが、どうにも忙しくてなかなか思うような進捗が見られなかったため、4月に Twitter で協力者を募集しました。

幸いなことにすぐにピーター氏からの連絡を受け、複数人での翻訳を開始することができました。

公開にさらに半年以上かかったのは理想的ではありませんが、多大な苦痛を感じることなくヒト社会を生き抜くために色々しないといけないことがあって皆忙しいのです。

仕方ありません。

 

5月



フェルスタッペンがリード!

5月のF1はアルガルヴェ、カタルーニャ、モンテカルロの3戦。

ハンガリー2019の再現でハミルトンが勝ったカタルーニャの終了時点では、ハミルトンは確か15ポイント程度の差をつけてマックスを引き離そうとしていたと思います。

このままマックスのタイトル争いは終わってしまうのかと思いましたが、モナコの優勝でマックスが初めてチャンピオンシップをリードすることになって心底ほっとしました。

 

レクラークのDNSについてはティフォシに同情せずにはいられません。

今や優勝争いの常連ではなくなったフェラーリとそのファンにとって、あのPPは特別だったはずです。

クラッシュで打った側とは逆のドラシャ破損が発覚してスタートさえできないとは、あまりにも残酷です。

 

ABEMA Prime の “反出生主義” 特集

観れば観るほど絶望するような部分はありますが、「生殖することは善くない」という立場が存在することが視聴者の一部に伝わったのであればある程度有意義だったのかな、とは思います。

この特集にはANIの人々からもある程度の関心が寄せられたものの、言語の壁によって内容が伝わっていなかったので、私の反応を示すことも兼ねてブログポスト(日本語版はこちら)で紹介しました。

 

6月



The Right To No Longer Exist のオープンレターを翻訳

6月中旬には、TRTNLE(存在をやめる権利)という新たな国際団体のオープンレターが英語で出したオープンレターの和訳を完了しました。

ウェブサイトは未完成のようですが、完成すればそこで読めるようになるはずです。

 

What Goes Around Comes Around:フレンチGP

メルセデスに対してハンガリー2019/スペイン2021を見事にやり返したフェルスタッペンが優勝、1st スティントのペースが心配だったペレスもフレッシュタイヤを活かして終盤にボッタスを喰らい表彰台に。

マクラーレンは2台とも予選より上位でフィニッシュ、アルファタウリはギャズリー入賞、角田はピットレーンからポイントに近いところまで挽回。

大満足のグランプリでした!😊

 

リチャード・ライダーは “ソウルメイト”?

英語の授業の課題の一環で自分で選んで読んだエッセイについて、私の日記にはこうあります。

 

リチャード・ライダーの "The Ethics of Painism: The Argument Against Painful Experiments" を [授業名] の宿題で読んでいる。これは動物実験に反対するための文章なのに、ほとんどANの教科書みたい。この人の言うことには100%同意。私の立場を完全に代弁している。いわばソウルメイト。

 

自分の考えていることにペイニズムという名前をつけてしばらく経ってから、同じ語を何年も前に使い始めていたリチャード・ライダー氏の存在を知りました。

このエッセイが恐らく私が初めて読んだ彼の著作だったと思います。

これを読んだ後は、とにかく嬉しくてたまりませんでした。

 

7月



シルバーストーンの悪夢

酷いブリティッシュGPでした。

ルイスとの接触からの大クラッシュでマックスが0周リタイア、優勝争いに絡むことも可能かと思ったランドはスローストップで4位、スプリントでの失敗から良いリカバリーをしていたチェコも結局無得点、ギャズリーはパンクチャー、あろうことかマックスを(当然ながら意図的にではなく)リタイアに追い込んだルイスが10秒ペナを消化してもなお優勝。

数ヶ月後のサウディアラビアンGPと張り合えるほど胸糞悪いレースでした。

 

8月



ブダペストの奇妙なGP

2020年のモンツァでさえ、ここまで奇妙なことにはなりませんでした。

ボウリング大会のごとき多重クラッシュ、グリッドに1台しか着かない不思議なリスタート、オコン対ヴェッテルの緊迫したトップ争い、アロンゾの鬼ブロック……わずかながらハース対レッドブルの直接対決を見られたのも素敵でしたね。

オコンの優勝とそれを喜ぶアロンゾは、2021年のF1で最も美しい瞬間の一つでした。

 

未経験の恐怖と実存的危機:硬すぎて脆かった決意

17日未明、全く新しく面白い種類の恐怖を経験したので、ツイートに記録しておきました。

 

私の存在開始の “取り返しのつかなさ” への深い恐怖。私がこれから積極的な他の意識の存在開始に寄与しないということは気休めにすらならない。

たった今恐怖しているこの私が作られてしまった。誰もとることのできない責任が発生してしまった。恐怖がハウリングする。自分が存在する(過去に他者の意思によって私の存在が開始された)ことへの恐怖を感じている自分が存在する(過去に他者の意思によって私の存在が開始された)ということへの恐怖を感じている自分が存在する(過去に他者の意思によって私の存在が開始された)ということへの……

 

涙が出たり身体が震えたりするような普通の恐怖とは完全に異質のものでした。

論理に対する恐怖と言いましょうか、今私がここにいることを私は知ってしまっているので、もうこの私の存在がなかったことになる方法は存在しない……要するに、私は存在しているので存在しないこと(choose to have not existed)はできない(繰り返しにしかなってない言い換えだな?)ということへの恐怖です。

「私は私である」ということは間違いなく真ですよね。

私がいくら強く望んでも、「私は私でないことができる」などということはあり得ません。

そのような絶対に崩れない論理の論理たることへの恐怖、とでも呼べば良いのでしょうか。

 

程なくして、実存的危機と呼べるような気がしなくもない何かが訪れました。

(下の文章は面倒なので興味がなければ読み飛ばしちゃってくださいな)

 

ここ数日真剣に存在を終了することを考えていて、それを実行した場合私はどれだけ悪い奴になるだろうかと思うとひどく失望する。

問題(が世界の側の世界に存在する可能性)に気付いていてそれに対処しないといけないと分かっていながらその道義的責任を放棄することは、私自身に許したくない。世界の側に世界がない可能性に賭けて存在を終了してしまうと、無限の可能性に対してnatalistsと同じ態度をとることになる。私が現段階で自身の存在を積極的に終了することは道徳的な誤りである。厄介なことに、この誤りを犯すのは困難ではない。

1人の奴隷がいる。この奴隷は看守のキーリングを手に入れたので、自分だけではなく仲間の奴隷を全員解放することが可能ではある。その奴隷は、他の奴隷たちの牢屋を開けて回る間に捕まるリスクを避けるために、自分の鍵だけ開けて一人で逃げてしまってよいのか。もちろん隣の奴隷に仕事を任せる選択肢もある。でも隣の奴隷が仕事を片付けてくれる保証はない。隣の奴隷だって逃げたい。だったら私がどれほど苦しんでもいいから他の奴隷たちを助けるために残るべきだ。

私の見ている奴隷が幻であれば、私の苦しみは無駄ということになる。でもそうでない可能性が排除されない以上、私は残って全ての牢屋の鍵を開けることを目指さなければならない。私は私自身に一人で逃げることを許せないけれど、他の奴隷が一人で逃げても責められない。(その奴隷が幻でないと仮定すれば)奴隷としてひどく苦しめられたのだから、確実に逃げる方法を手にしたのに自分たちのために残ってくれなどと頼むことはできない。私と違って、私以外の奴隷は私の単独での脱獄を許すことができると思う。怒るだろうけれど、理解はできるはず。充分すぎるほど苦しんだと分かってくれるはず。

もし私が彼らの見る幻でないなら。全員解放できると思いたい。私が残ることで味わうことになる苦しみは報われると思わされたい。そうでないと今の私は一人で逃げてしまいそう。そんな悪い奴になりたくない。

ビッグバンかビッグバンの役割を果たした何かが起きなかったことになることに次いで魅力的なオプションが私の存在終了である。それを採用すれば私という意識がその後一切起こらなくなることが期待されるので、他のオプションを選ばなかったことを悔やむことはあり得ないと言っていい。選べば絶対に後悔しないと分かっている。後悔する主体が消えるわけだから。私が翻訳したTRTNLEのオープンレターにあるように、一人で逃げることは基本的人権(基本的意識権と呼びたい)だから、他の奴隷たちが私の単独脱出を非難することはできない。非難できるのは、非難しているのは、私だけ。

私は権利の行使を見合わせて自分を犠牲にして、実在するかも分からない他の意識たちのために働ける奴だと思っていた。そうでないならば本当に遺憾。私は義務を自分に課してそれを果たすことができると思っていたのに。

ただ、これに関して「それが人間だ」とか「完璧である必要はない」とか言う者に耳を貸してはならない。私も同じ穴の狢になりつつあるが。それでも正しさの正しさは変わらない。完璧は目指されなければならない。目指されなくていい完璧は完璧と呼べない。

 

思い返してみれば、私は2018年頃にもこの種の危機に陥りそうになっていました。

私はそれを「独我論のワクチン」と呼んで処理することに成功しましたが、今回のはいわばブレイクスルー感染からの重症化です。

私の活動が救うことになるであろう非存在者にとって幸運なことに、この危機は十分な休息によって弱体化して概ね撤退してくれました。

 

ともかく、このヒトの身体の神経系の機能を止めることで存在をやめようと決めた(けれど最終的には撤回した)今回の件の原因は、硬すぎて脆かったカーボンファイバーのような決意です。

「このヒトの身体の他にも有感生物が存在することを私の知覚が示唆するので、私はそれらが作られることによって私以外の意識が苦痛を感じる可能性に晒されることを阻止するためにできることをしなければならない」というのが私が存在している理由です(『原因』ではありません。あくまでも私が自らの能動的な存在継続にあたって設定する『理由』です)。

自分の苦痛最小化と快楽最大化を目的とせず他者の苦痛最小化を目指さなければならない、というのは非常に強力な存在継続のモチベーションになります。

自分の夢、例えば画家として成功するなどというような夢なら飽きることができますが、倫理的に最も望ましいことをするというのは飽きるということがそもそも不可能な目的だからです。

ところが、その根底にあって私が見逃していた良心(道徳的規範に従う意志)という全ての基礎が崩れてしまえば、仕事をするモチベーションは完全に消え去ります。

 

この危機から得た教訓を最近ツイートしました。

 

You need to make your life as easy as you possibly can, especially when you are advocating for important causes (only one of which, of course, is pain/suffering abolitionism - essentially that's always why we do anything we do). Sure, you live such an exhausting life, pushing yourself and fighting for potential sentient beings that will never be there to thank you in any way, because you know someone has to do it. And it's always the one who knows someone has to do it that actually does it. But you can risk destroying yourself ONLY when you are absolutely, 100% sure that someone else is willing and able to replace you. Making your own life easy enough for yourself to keep working is part of your job. I learned this in the hard way in 2021.

重要な問題(唯一の本当に重要な問題というのは当然ながら苦痛最小化ですが――結局我々が何に取り組むにしても、必ず苦痛最小化に貢献することになるわけですし)に取り組んでいる人々には特に当てはまることなのですが、我々は自分の人生を可能な限り簡単なものにしなければなりません。自分以外の有感生物のために戦い、限界まで自分を追い込む人生は、確かにどうしても苦しいものになりがちです。そして我々に救われる有感生物は存在を開始しないので、我々に感謝することはありません。誰かがそれをしないといけないと分かっているから我々がするのです。誰かがしないといけないことを実際にするのは、いつも「誰かがしないといけない」と分かっているヒトですよね。でも、自分が完全に破壊されるリスクを冒していいのは、自分以外の誰かが自分の代わりに仕事を終えてくれる能力と意志があると100%確信できる時だけです。苦痛最小化に取り組みを継続できる程度に自分の人生を簡単なものにすることは、我々の仕事の一部です。私は2021年、このことを身をもって知りました。

 

良心を失えば私は文字通り用済みになり、もう仕事をできる状態ではなくなります。

私はそれが起こることを許してはなりません。

そのために、私は慎重に私自身のご機嫌を取りながら仕事を進めなければなりません。

 

初めての定期総会

無生殖協会として初めて開いた定期総会で、会則の改正と役員の選出を行いました。

前述の危機から気分としては70%程度脱出していた時期だったので、ちょうどいいリハビリのプログラムになったような気がします。

 

9月



上等なダッチGP

メルセデスが何をしてもマックスはその動きを完全に封じることができました。

中身は濃いけれど後味スッキリ!

純粋に良いレースでした。

 

モンツァのポジティヴ・エナジー

前戦ザントフォールトに続いて、モンツァもまた素晴らしいレースでした。

驚いたことにメルセデスもレッドブルも達成しなかった今季唯一の1-2フィニッシュを、あろうことかマクラーレンがやってしまいました。

DNS/DNFで2台とも失ったアルファタウリの結果は非常に残念なものでしたが、それを差し引いても総合的に大変良い日になりました。

私はランドのファンとしてマクラーレンにはそれなりの好意を持っているのですが、そうでなかったとしてもこのレースからは非常にポジティヴなエナジーを受け取ることができたはずです。

 

ドキュメンタリー『Schumacher』

Netflix で公開されたドキュメンタリー『Schumacher』は、私には大変な良作に見えました。

「(モナコ2006の予選など)ダーティーな部分がなかったことにされている」というような意見が現役時代を知るらしいファンから聞こえてきますが、私はシューマッカーについて知っておくべきことをこの作品から十分知ることができたと思っています。

 

ソチの涙

ノリス/サインツ/ラッセルという予選トップ3の組み合わせは、正直なところ半年経った今でも信じられません。

翌日の決勝も、ランドのファンである私としては夢のような展開だったはずなのですが……嫌なタイミングでの雨があまりにも困難な試練をランドにもたらし、優勝の可能性を無慈悲に奪ってしまったおかげで、レース終了後はひどく気分が沈みました。

 

10月



F1 Nation がお気に入り

毎日の散歩のお供に聴き始めた F1 Nation ポッドキャストは、すっかり私のお気に入りになりました。

最新のエピソードを一通り聴き終えたので、10月の初頭からは2021年(クラークソン、ピンカム、ヒルの現行3人体制)のエピソードを最初から通して聴き始めました。

F1ファンなら楽しめること間違いなし!

オススメです。

 

ターキーの白牛

望み得る最良の結果だったと思います。

美しい “ホワイト” ブルが2位/3位のダブル表彰台。

それを可能にしたペレスによる対ハミルトンのディフェンスは、2021年のベストバトルの一つだったのではないでしょうか。

入会申請フォーム

「苦痛を感じ得るものの生成に対する新規入会者の立場や保有するスキルの正確な把握を容易にすることを目的とする施策の一環」として、入会申請フォームを利用した無生殖協会の入会受付を開始しました。

会員が何をどう考えていてどのような特技を持っているのか入会の時点で分かるということは、今後望まれる活動の拡大にあたってますます有益になると思います。

 

11月



メキシコシティ :D サンパウロ : (

メキシコシティGPは素晴らしいものでした。

予選1-2のメルセデスは決勝で大苦戦し、スタート直後にリードを奪ったマックスに対してできることは一切なし。

チェコもあと1周あれば、というところまでハミルトンを追い詰めることに成功しました。

寂しいレースの結果としてのギャズリーの4位にも大満足です。

週末を通して好調に見えた角田がオコンと共に1周目でリタイアに追い込まれたのはあまりにも不運でしたが、ギャズリーのパフォーマンスはそれを補ってくれました。

 

サンパウロは少々後味の悪いレースでした。

ハミルトンが事実上の最下位スタートから勝ったこともそうなのですが、マックスが “曲がり切れなかったため意図せずにハミルトンを押し出す形になってしまった” インシデントが審議さえされなかった点については今でも納得できずにいます。

 

AN Handbook の日本語版公開

ここまで時間がかかったことは不本意でしたが、AN Handbook 日本語版の公開は翻訳部として最初の目に見える活動成果になったので、嬉しい出来事でした。

今では60個もある言い訳+反論のうち30個だけ(PDFで配布されていた頃の第1版にあたる部分)ですが、間もなく31番から45番も公開できる見込みです。

 

フィナーレへのビルドアップ:カタールGP

タイトルを争う二人はハミルトンが独走優勝、マックスは5位スタートから完璧なダメージ・リミテーションで2位。

まだマックスがリードを保つことになったとはいえ、勢いがあるのは完全にメルセデスの方でした。

3位には私がF1を追い始めてから初めての表彰台となったアロンゾ。

これは本当に嬉しいものでしたが、この結果によってカタールに同点で乗り込んだアルピーヌとアルファタウリの間に25点もの差がついてしまったことは、ATファンとしてあまりにも残念でした。

とりわけギャズリーは2番グリッドからスタートし、不可解なレースペースの欠如でポイント圏外に終わったのですから、推しチームの存在を忘れてニュートラルなファンに今だけなりたい、と思うような決勝でした。

 

ポジティブだったのは、このサーキットが予想に反して(レッドブルリンク/ザントフォールト級ではないにせよ)私のお気に入りの一つになったことです。

F1 マシンが F1 マシンらしくパフォーマンスを発揮できるコーナーの連続で、観ていて単純に楽しいサーキットです。

 

ラヴェルのピアノ協奏曲

サンソン・フランソワのピアノとアンドレ・クリュイタンスの指揮によるラヴェルのピアノ協奏曲ト長調は、私にとっていわば2021年終盤のテーマソングのようなものになりました。

第2楽章はどういうわけか「自家用車の後部座席から見た夜のサーチライトへの恐怖」の極めて個人的な思い出を想起させるので、以前から思い入れのある楽曲でした。

11月以降はすっかり、第1楽章 ⇒ 第2楽章 ⇒ 第3楽章と聴いてまた第1楽章に戻るプレイリスト・リピートばかりしています。

12月



The Antinatalist Film Festival

ANIとしてこれまでで最大のイベントとなった第1回の The Antinatalist Film Festival は、日本と合衆国のタイムゾーンの違いのせいでとんでもない時間にリアルタイム参加することになりました。

終盤は眠気との戦いになってしまったものの、この映画祭はその後の活動への意欲を高めてくれるインスパイアリングな時間になりました。

本当は卒業制作をこれの第2回に出品するつもりで作るはずだったのですが、8月の危機で制作をキャンセルせざるを得なかったので、私の作品が AN Film Festival に登場することがあるとすればそれはかなり先のことになると思います。

 

未完の傑作:サウディアラビアンGP

私が2021年にF1ファンとして存在していることに心から感謝した瞬間が2つあります。

その一つが、マックス・フェルスタッペンとRB16Bがそれ以上不可能と思われるほど一体化していたように見える、サウディアラビアのQ3です。

様々なパラメーターを持つ物理法則に支配された現実世界で、まるでeスポーツのチャンピオンが iRacing か何かをプレイしているかのようなラップができることは、恐らく完璧なセットアップ、完璧なトラックリミットの把握、完璧なタイヤ温度、完璧な身体のコントロールが組み合わさって初めて可能になるものです。


その完璧の組み合わせは、惜しいことに最終コーナーまで続きませんでした。

それでもこのラップは、未完の傑作として私の記憶に残り続けると確信しています。

 

決勝は……正直言ってふぁ***ク*う**でした。

私が別のブログポストで全22戦を評価した時には、このレースは「get in the bin」(ゴミ箱行き)と断じることになりました。

史上最も完璧に近いラップの一つだった前日のプッシュラップをまとめられなかったことによるフラストレーションにマックスが影響されたのかどうか私には分かりませんが、この日の彼のドライビング・スタンダードは2015年の F1 デビュー以来最悪のものだったと思います。

 

クラッシュが起きれば必ず赤旗が振られるようにデザインされた(コースレイアウトではなく安全装備の使い方の面で、ですが)としか思えない酷いサーキットでレースは全体として拙く、ファンに嫌悪される見苦しいドライビングを以てしてもなおマックスはハミルトンに敗れ、マックスのタイトル争いでのリードは完全に失われ、私にとっては酷く胸糞悪い決勝日になりました。

 

南関東散歩部として最初のイベント

別のブログポストに詳しく書きましたが、12月に南関東散歩部という任意活動部を新設し、その最初のイベントを開催しました。

天気に恵まれ、快適な登山を楽しむことができました。

小川げんきプラザ/金勝山は適度な標高と良い景色を楽しめる所なので、何度でも戻って来たくなります。

 

4月になる前にもう一度行っておこうかな。

もし同行に興味のある方がいらっしゃればお気軽にお知らせください。

WE ARE THE CHAMPIONS:アブダビGP

この私はすごい世界線に生きています。

マックスはソフト対ミディアムのスタート対決でルイスに負け、1st スティントのペースは足りず、次に履いたハードでもルイスのペースにはついて行けず、フレッシュなハードで2ストップに切り替えても十分な速さはなく……そこにラティフィのクラッシュでSC。

1ストップにスティックせざるを得なかったルイスを、マックスはソフトの利を活かして下し、大逆転を実現。

レース中にホーナー代表は「現時点でマックスがタイトルを獲るためにはミラクルが必要」と語りましたが、まさにそのミラクルが実現したわけです。

もちろんこのミラクルの実現の過程にレースコントロールの違法なオペレーションがあったことは今さら否定のしようがありませんが、「SC中とはいえピットに入ればトラックポジションを失うことになる」立場にルイスを追い込んだレッドブルのチーム全体としての努力も無視されるべきではありません。

 

前述した「2021年にF1ファンとして存在していることに心から感謝した」2つの瞬間の2つ目が、アブダビでチェッカーフラッグが振られた瞬間でした。

推しドライバーのタイトル獲得をリアルタイム観戦で経験するのは2回目(最初は W Series でのジェイミー・チャドウィック)ですが、これが Formula 1 世界選手権であること、そして2021シーズンのタイトル争いが史上最良のものだったかも知れない(主観的な評価をするしかないでしょうから、これについては議論の余地があるどころか議論をしようとすること自体ナンセンスですが)ということが大きな違いを作りました。

マックスがタイトルを獲得して夢を叶えた瞬間、マックスを支えたレッドブル・レーシングとセルジオ・ペレス、世界中のマックス/レッドブルファンたちと一緒に自分もチャンピオンになって夢を叶えたかのような感覚がありました。

スポーツに興味のない人々には「何と大袈裟な」と思われるかも知れませんが、結局ファンであるというのはそういうことなんですよね。

ライブスポーツの力をこれほど強く実感したことはこの日までありませんでした。

 

ここまで書いて思ったのですが、このシーズンをまとめたブログポストに書かれるべきだった内容の多くがこのブログポストに分散してしまいましたね。

仕方ないのでこのままにしておきますが。

 

三浦半島

25日の三浦半島行きが、2021年に唯一きちんとした「旅行」と呼べそうなイベントとなりました。

とりわけ驚くべきことではないのでしょうけれども、これほど漁業が盛んな場所を訪れるのはヴィーガニズムの実践を開始してから初めてだったので、このエリアで有感生物たちが経験してきた、そして今後しばらくヒト社会の改革の遅さのために経験してしまうであろう多大な苦痛を考えると、少しばかり気分が沈んでしまいました。

とはいえやはり美しい場所ですし、撮れ高も良かったので、全体として大変良い旅行になりました。


2022年に意識たちが多大な苦痛を感じないこと、そして2022年に起こることがその後の苦感能力を持つ意識の生成防止に好影響をもたらすことを願います。

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